誰が居る、ということが分かっていても緊張するものだな、この瞬間は。そして扉を開いた先に思い通りの人が居て安心するのだ。随分久しぶりだな。
「もう2週間ほどになるからね」
最近のくすくす笑いから、あのときのくつくつと忍び笑いに近い笑い方に戻っている。
「そっちも記憶が戻ったんだってな」
教壇を降りて教室の中心までゆっくりと歩く朝倉にそう声を掛ける。行動パターンも前と同じ。デジャヴでも見ている気分だ。違うのと言えば…そうだ、あのペンダントがかかったままだ。
「そうね。ま、正確に言えば向こうと同期しただけなんだけど」
夕日を上半身に浴びている朝倉は、それはもう綺麗で、写真に収めて懐に収めておきたいくらいだ。しかし、そんなことを暢気にやっている暇はない。言いたいことも、言わなきゃいけないことも、やらなきゃいけないことも、みんな残っている。
「そういや、ペンダントはどうしたの?」
「ちょっとな」
「ふーん」
朝倉はすぐに興味なさそうに教室を歩き出す。
「ちなみに崩壊はいつなんだ?」
「今日、って言うのは知っているでしょ?時間はそうね、夕日が沈む頃かな。すぐに崩壊が始まってこの世界は全部塵になるのよ。綺麗よ、きっと。全てが全部塵になって消えていくの。何も残らないわ。全ての存在の情報連結が解除されて消えるの」
窓の外を見つめ嬉しそうに語る。喋り方だけを聞けば、こっちの世界の朝倉はここに居ない。そうだ、もう完全に”情報統合思念体製対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース”の朝倉涼子に戻ったようにしか見えない。
「それで、何かな。話って」
全部話すって言ってたよね、と付け加えて満面の笑みを浮かべた。さて、何から話すべきかね。言いたいことはいろいろあっても、いざとなると何から話せばいいのか分からなくなる。
「そうだな…あの時は言い過ぎた。すまない」
「別にいいのよ、そんなこと」
相変わらず笑みを絶やさない朝倉。そして、
「同期してみて分かったわ。やっぱりあの子死んでた。塀の上から落ちたのかしら?塀の下の木の陰でそのまま凍えてたみたいね」
可愛がっていた猫のこととは思えないほどあっさりと。
「あーあ、もうちょっと元気だったら良かったのにね」
一層笑顔になる朝倉。夕日が少しずつ、少しずつだが確実に沈んでいく。あと1時間もしないうちに辺りは夜の装いになるだろう。
「そうか。できればちゃんと埋めてやりたかったが、今はそんなことももうできないな」
「そうね」
また一歩、教室の奥へ。それと同時に俺も一歩一歩教室の中へ。全ての影が教室に長く伸びるのが印象的で、ああ、これがあのほとんど記憶にない、いや実際に記憶に存在するだけの告白シーンだったらどれほど良かっただろう。
「それだけかしら?全部と言ってた割には少ない気がするけど」
「みんな心配してたぞ。クラスメイトとか、長門とか」
「クラスメイト?ああ、有機生命体の集団ね。馴れ合いが好きだもの、心配してる、とでも言っておけば自分が安心するだけなのよ。ほら、前言ったじゃない。占いとかお呪いと同じで、自己満足なのよ」
後ろ手に手を組んでそう言った朝倉の顔は、夕焼けを背にしたせいで暗くなって見えない。
「長門さんは私と同じ対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース。私は一度あなたを殺そうとしたのよ。心配なんてするわけないじゃない。ああ、あなたをまた殺そうとするかもしれないって心配ならあるかもしれないけどね」
口に手を当てて笑う。
「まぁ、やっぱりそんなものよね、言いたいことなんて。所詮有機生命体の情報の貯蓄量なんかたかが知れてるし」
そしてこちらを向いた。手には、あのときのナイフ。夕日はじりじりと山肌を撫でるように照らす。
「このまま、世界が崩壊するのを待っているとね。元の私が作った私や世界は全部塵になって消えるの」
手でナイフを弄びながら、笑顔を崩さずに。
「もう大体は知ってるだろうけど、教えておくわ。今のあなたの立場」
夕日を背にして机に座って、朝倉は続ける。
「あなたは元々この世界で作られたものじゃなくて、いわゆる異分子なの。だから、この世界が消えればあなただけは元の世界に帰る。で、私の目的は涼宮ハルヒにもう一度情報フレアを起こさせて、それを観測すること。この繋がりが分かるかしら?」
ちろり、と舌がナイフに這う。赤く染まったナイフよりなお赤い、朝倉の舌が。
「本当は向こうに戻して、涼宮ハルヒの目の前で殺したかったんだけど、いろいろ手間なのよね。それで考えたんだけど、あなたをここで殺してもあなたが死んだという事実だけ直接情報改変すれば涼宮ハルヒはあなたが死んだことを知る。なら、ここであなたを殺しても全く結果は変わらないというわけ」
表情は見えない。でも、きっと笑顔だろう。
「だから死んで欲しいの。いいよね?恋人だもの」
そうだな、恋人だ。
「あら、本気にしたの?くすくす、何言っているの。私たちの関係は作られただけの恋人じゃない。それに私、恋なんて興味ないわ。実際やってみてよく分かった。楽しいことなんか、全然ないしね」
机から降りて窓の方を振り返る。照らされた横顔はいつも以上に綺麗で、いつも以上に儚かった。
「…時間が無いわ。前は失敗したけど、今回は失敗しない。終わらせましょ、全部」
笑顔のまま腰を落として、足を開き、俺に向かってナイフを構える朝倉。こりゃ、もろに刺されたら死ぬだろうな。そう他人事のように見ている自分が居た。ナイフじゃない何かが赤い光をはじく。
「じゃあ、死んで!」
ここなら本来は全力で避けることに集中するべきだったろう。前みたいに何か運良く避けられるかもしれなかったわけだしな。でも俺は避けなかった。なぜか?
そう、見ちまったんだ。何かが光を弾いたのを。それはここに二人しか人が居なくて、俺ではないから必然的に朝倉のものになるんだ。そして、それは暖かくて悲しい水で、今まで付き合ってきた中で、朝倉が一度も見せたことがなかったものだ。
…ナイフは俺の胸の直前で止まっていた。別に俺が超能力とかで止めたわけじゃない。朝倉自身の手で、止められた。
「なんで…避けないのよ」
なんでだろうな。朝倉はそんなことしないって、思ったからだろうか。精一杯の、安堵とその他諸々の感情を全部吐き出した笑顔でそう言った。まあ、正直びびってなかったといえば嘘になるんだが。
「…殺せる…わけ…ないじゃない……!」
カラン、と乾いた音を立ててナイフが床に転がる。水は雫から糸になり、そして頬をとめどなく流れ始める。
「殺せるわけないじゃない!殺せるわけないじゃない!殺せるわけ…ないじゃない」
胸でむせび泣く朝倉は”対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース”ではなくて、ただの一人、この世で俺が愛した少女でしかなかった。力なく、胸を俺の胸をたたく朝倉。
「なんで…知っちゃったのよ。今まで通り、何も感じない、冷たい心のままで居れば何も苦しむことはなかったのに!」
「なあ、朝倉」
ぎゅっと、腕に力を込めて抱きしめる。あっ、と小さな声。
「お前にとって、ただの一人の有機生命体である俺はどうなのかは知らないが」
一番、心から言いたかったこと。
「俺は間違いなく、お前のことが好きだ」
「……っく…」
「最初は戸惑ったさ。お前が実はよくわからん宇宙人の産物だとか、そう言う話を聞かされてな。その上だな、この世界も朝倉が作って、自分の都合のいいように俺を傍に置いた、と聞いたとき、さっぱり分からなくなったんだ」
天井を見上げる。そこも赤い世界の一部には変わりなく、目新しいわけでもなかったがこうでもしてないと俺も我慢ができそうにない。
「お前がただの演技で、俺のことを好きだというふりをして俺の動きを監視していただけだったとまで言われたときには、どうでもいい、勝手に世界なんか崩壊しちまえ、って思ったもんだ」
「…私…も……、自分が………ひくっ…宇宙人だって分、かったときなんか…もう死んじゃいたかった……よ」
「でもな、違うんだよ。元の世界だろうと、俺は誰かに作られた人間かもしれないんだ。いわゆる神様とかな。だったら、今の朝倉と何が違う?何も違わないだろう」
もしかすると痛いかもしれない、そんなことを考えとは裏腹にもっと腕に力を込める。
「朝倉を好きになったきっかけは確かに情報操作だかなんだかかもしれない。しかしだな、人間の心というもんはいつまでも操れるもんじゃないんだよ。俺だって結局朝倉が宇宙人だっていうことを知った。でも嫌いになったか?なってないよな。人を好きになるってのはそんなもんだ。きっかけなんてどうでもいいんだよ」
「そうだ…ね…」
もう自分が何を言っているんだか分からなくなってきているが、それでも言わなきゃいけないことはいっぱいある。でも、時間はそれを許してくれない。だから、今は一番大切なことだけ。きっと、また出会えるはず、いや、絶対会えるからな。
「元の世界で待ってる。いつまでもな」
ポケットから、昨日の夜作り終わったいびつな俺の人形を取り出す。
「なんでもな、好きな人の手作りのものと自分が大切にしてたものを糸でひとまとめにしておいて枕元に置いておくと、再会できるらしい」
それはあの朝倉が友達から勧められて買った本に書いてあったおまじない。
「ちなみに両方がそれをしてると再会確率は99%なんだそうだ」
「…くすっ、どうやって99%なんて決めてるんだろうね」
「全くだ」
目の端々に涙を残しながらも、少しだけ笑顔を取り戻す朝倉。
「でも、こっちの世界のものは全部消えちゃうのよ。それに…私は枕元に置いておけないわ」
「大丈夫、持って帰れるさ。信じればいいだけだろう」
「あら、超常現象とか信じないんじゃなかったの?」
「いいじゃないか、自分の都合のいい事だけ信じるってのも案外悪くないもんだぞ」
「そうね…私も信じてみようかな」
俺に人形に今つけていた朝倉はペンダントをつけてやる。
「糸ではつけれないから、こうしておくね」
「実は、俺も糸でくっつけておくのを忘れてだな、同じ状態なんだ」
逆側のポケットから、ハルカにかじられてところどころ穴が開いていた朝倉の人形を取り出した。買ってから今までずっとつけていたペンダントを首にぶら下げている人形は、なぜだろうな、少し嬉しそうに見えた。
「…捨てたわけじゃなかったんだね」
「捨てるわけがないだろう。二人だけの宝物なんだからな」
「そう…よね」
また涙が溢れ出す。やばいな、俺もそろそろもらい泣きしそうだ。
「もう、日が沈むね。この世界ももう終わり」
その言葉の意味を、直後に知ることになる。ぱきっ、と音がして、空や壁、黒板、机。ありとあらゆるものに光の亀裂が入り、形を崩していく。そして、それは俺たちも例外じゃない。足元から少しずつ、徐々にスピードを増して。
「そうだ、一つだけ…私嘘を言ったの」
全身に亀裂が入る中で、朝倉は言った。
「ハルカのことね。本当は怖くて同期してないの。だからあの子が今どうなっているのかは分からない」
「そうか」
「でもね…きっと生きてると信じてる」
ああ、俺もだ。
「結局、有機…ううん、人や動物が生きている意味って良く分からなかった。でも、生きているからこそ感じられることがいっぱいあるってことは分かったの。それはあの子とあなたがいっぱい教えてくれた」
夕日さえも形を崩し、本来ならそれを隠す山もほとんど原型をとどめていない。そして、その隙間から白い世界が覗いているのだ。
「ありがとう、本当にありがとう」
消失する。朝倉涼子が愛した世界、そして朝倉涼子さえも。少しだけ、世界より俺たちの崩壊が遅いのは、朝倉の力か。
「待ってるからな、涼子」
そして、俺は涙に濡れた唇にそっと唇を触れさせた。目を丸くして驚いた朝倉は、すぐに、今までにみたことないくらいの笑顔で叫んだ。
「うん、すぐに行くね!」
声が消えると同時に、完全に真っ白に満たされた世界に飛び込んで俺は意識を失った。