「なんだ、君は」
しまった。時計を確認。まだ太い針で1、長い針で3を少し超えた部分をさしているところ、つまり1時15分ちょいってことだ。
日野さんが2時過ぎを目処に、とか言っていたのを今更思い出し、後悔する。
「いえ、あの、日野正治さんいらっしゃいますか?」
「正治に何の御用か」
やばい。この人は、やばい。
おそらく父親なんだろうが、なんつーか、立っているだけで「さっさと帰れ」という文字が、炎を纏って浮かび上がるようで、なんだか正治さんが「いろいろある」と言っていた意味がこれだけで分かったような気がした。
ほとんどが白髪で、顔のパーツ、特に目元をいじれば、子供に大人気の赤服のジジイにもなれそうだった。
しかし、どこで間違ったか、子供に夢を与えるというより、夢を押し付け、期待以上の結果を出さないと許さない、そんな空気が漂っていた。
ああ、確かにこんな親だと苦労しそうだ。
「ちょっとお会いして、お話を……」
「正治は勉強中。早々にお帰り願いたい」
1つ、2つ山を背負ってるような圧迫感、圧倒感。そしてこの重厚かつ厳格な声。
これは出直した方がいいかもしれん。
「じゃ、じゃあ帰ります。それでは……」
と、長門を見ると、その恐怖を感じないのか、相手の顔を凝視している。
「……どうしたかね、お嬢さん」
「会わせて」
「正治は勉強、」
「重要な話」
身じろぎもせず、こちらもこちらで動かざること山の如し、といった状態の長門。漫画的に表現すれば、きっとこの2人の目線の先には、火花が飛び散っているに違いない。
数十秒か、1分を超えていたかは不明だが、しばらくして、長門が帰らないということを悟ったのだろう。
「……ちょっと待っておれ」
こういうとき、長門が一緒でよかったと思う。一番こじらせないやつだからな。
しばしの時間が経ち、出てきたのはまたもや親父さん。
もしかして、駄目だったとか……。
こっちを、捕食直前のマングースの目で一瞥すると、
「案内しよう」
と言って、すたすたと歩き出した。あの目で睨まれても平常を保っていられる長門を尊敬する。あれは、視線だけで人を殺せるんじゃないかと思うのに、よく耐えられるな。まあ、人間じゃない分、どっかずれてるのかもしれないが。
ついていくと、途中で女性を発見。母親だろうか。
先導する父親、らしき人物、の性格から、思わず身構えるが、
「あら……?」
振り向いたその人は、ものすごい美人だった。腰辺りまで伸びた黒髪を腰よりちょっと高い位置で、深緑色のリボンで結んでいた。全体的に細身ではあるが、身長は割と高い。160cmくらいだろうか。
妻というより、娘に見えてしまうくらい、若くに見える。実際に、実は正治さんの姉だとかいうオチはないだろうか。
「正治の友人だそうだ」
「そうですか。では、後でお茶でもお持ちしましょう」
返事もせず、そのまま進んでいく。
「お、お邪魔します」
「どうぞ」
その女性の笑顔に、安堵した。
階段を上がって右手の一番奥の部屋、既に扉が開いている部屋へ通される。
「10分だ」
それだけ告げて、去っていく日野父。
ふー……、息が詰まった。
「どうぞ、座ってください」
既に座布団を2つ用意してくれて、そこに俺と長門は座らせてもらう。
「すみません、そういえば2時過ぎだとか言ってましたね」
「いえ、今日はどちらにせよ、親はずっと居ますから」
ゴーヤとクレソンを噛み砕いて、ブラックのコーヒーで流し込んだくらい苦そうな顔をして、日野さんは呟く。
うむ、君の気持ちはよく分かる、とまでは言い切れないが、大体想像はつく。
ってちょっと待てよ? 先の「10分だ」は、「10分経ったら出て行け」ということなのか。
「多分そうでしょう。本当なら今の時間、勉強していなければいけないときですから」
「ああ、もしかして、2時過ぎっていうのは、2時まで勉強の時間だったってことですか」
「そんな感じです。日によって違ったりもしますが、大体は2時から3時辺りは空きの時間になることが多いんです」
というか、大体は親が居ない時間だったりするんですけどね、と付け加えて頬を掻く。
そこまで喋ったときに、ドアをノックする音が聞こえる。
「お菓子とお茶を持ってきましたよ」
ドアを開けて入ってきたのはさっきの女性。
「ああ、母さん、ありがとう」
「ジュースの方が良かったかしら?」
「いえ、お気遣い無く」
どうやら、マジで母親らしい。歳から考えると、既に40は超えてるような気がするが、どう見たってせいぜい30前半、贔屓目に見れば20代後半とも言えるんじゃないかね。
正治さんは母親似だろう。どちらも優しそうな風貌だし。
「ゆっくりしていってくださいね」
極上笑顔を振りまいて、胸にお盆を抱いて出て行った。
ああいう人が居ると安心するな。
「母は……いつでも優しいですから。お茶、どうぞ」
ああ、ありがとう。
「それで、今日の用とは?」
「ああ、それなんですが……」
長門の方を見ると、今日は茶にも菓子にも手をつけず、じっとこっちを見ている。
お前が話すか?
1回頷いて、長門は日野さんの方を向いた。
「深山静香が海外へ引っ越す」
「……!」
唐突過ぎて、声も出なかったようだ。
「親の転勤。向こうに永住する可能性もある。すぐには帰って来れない」
必要な単語、フレーズだけ並べていく。
「そう……ですか」
日野さんは小さく呟いた。「いつ頃から、と言っていましたか?」
「1週間かからない」
「そうですか……」
しばらく考え込んだ後、
「実は、僕も引っ越すんです」
……マジかよ。
「正確には海外留学なんですけどね。世界を見て来いと、父に言われました」
どっちもあまりに急すぎないか? っつーか、普通はそんなにギリギリにするものじゃないと思うが。
「まあ、既に飛行機も取ってるみたいですし、どうしようもないです」
そうだな。今更キャンセルする、ってのも無理だろう。
これで、完全に2人は出会う可能性は限りなく0に近くなった。もう、会えないだろう。
「えーっと、それでですね、日野さん」
「はい?」
「深山さんから、なんですが……できれば最後に1度だけ会ってくれないか、って」
最後の最後だから。そう深山さんは言っていた。
「…………考えさせてください」
苦々しい顔を変えずに、そうとだけ言った。
直後、
「10分だ」
日野さんの父乱入。
「じゃあ、これで。お茶とお菓子、ごちそうさまでした」
頭を下げると、長門も立って一礼。
「ああ、玄関まで……」
「お前は来なくていい。勉強を再開しろ」
「……はい」
強く言われ、日野さんは机に向かった。それを確認して、
「ついて来い」
日野父は歩き出した。黙って従ってついていく俺たち。なんだか物悲しそうな正治さんの背中だけが部屋に残されていた。