さすがにそこまで近づいて気づかないほどは愚かではなかった。だったらもうちょっと早めに気づけよ、という気がしなくもないが。
「朝比奈さん、逃げますよ!」
「え、えっ、えっ?」
パニクってる朝比奈さんへの説明もほどほどに手を引いて回れ右、全力疾走を開始する。『あれ』は正直俺の手には到底負えない。つーか、こんなところに出てくるんじゃねえ! 幽霊よりよっぽど危険だ!
ロウソクの火を消さないように、それ以前にロウソクをひっくり倒さないように傾斜させながら階段を明かりとりの窓から入る光だけで足元を確認して駆け下り、入り口の扉に近づく。両手が塞がっていてはどうしようもないため、
「朝比奈さん、ちょっとコレ持っててください!」
と半ば強引に朝比奈さんにロウソクを持ってもらうと、扉の丸ノブに手を掛ける。が、右に回しても左に回しても開く様子は無い。仕方がねえ、こういうときは蹴破ろう。足の裏で扉が合わさっている部分を蹴った。
「びくともしねえ!」
蹴った足の方が銅鑼でも鳴らしたかのようにじんじんとするだけだった。よく見ると、扉の絵が描いてあるだけの壁であることに今更気づく。ノブだけが本物かよ!
ってことは何か、既に閉鎖空間に閉じ込められてたってわけか。いや、それとも今さっき、俺が壁を蹴る直前に閉鎖空間を作り出したのか。どっちでもいい、今はここから逃げ出すことが――
「あ、あの……キョ、キョン君」
「なんですか、朝比奈さん」
「う、後ろに……」
振り向くと、3歩先くらいの場所にかろうじて長門らしき姿が佇んでいるのを確認できた。あれだけ全力疾走してきたのにすぐに追いつかれた!
これが本物の長門だったら、いや、今はそんな仮定法の話を持ち込んでも仕方がない。この長門は長門であって長門ではないことに変わりは無いからな。俺より頭一つ分くらいは小さいあの影は、いざというピンチの時に救いに来てくれる正義の味方ではなく、何故だか理由はよく分からんが俺たちを亡き者にしようとたくらんでいるらしい敵軍である。
……いや、ただのちょっかい掛けてきてるだけだったか? まあ、友好的でないのは間違いない。そしてこいつのちょっかいは、一般人の耐久値からいくと1発蹴りを肋骨辺りに直接貰った場合、何本かが大きな音を立てることは間違いない。
「くっ……」
こういうときに何か能力をくれても良かったんじゃないか、などと神様辺りを恨んでみる。何も能力がない人間を突然RPGゲームの中に放り込まれりゃ、町の外一歩出たところで初遭遇するようなLV1低級ザコモンスターにだってやられるぜ。それくらい考えて能力分配をしてくれてもいいんじゃないか?
まあ今はそんな恨み言を言っている暇があれば、朝比奈さんとどうにかして逃げ出す方が先決だということは決まりきっている。くそっ、こんな屋敷の中で、それも真っ暗な中を明かりはこのロウソクと月明かりのみで鬼ごっこなんて悪趣味すぎるぜ。それもロウソクは時間制限、屋敷はほとんど1階、2階共にほとんどの部屋が一筆書きに走ることができる状態だ。逆方向から来たら鉢合わせるしかないし、通過点じゃない部屋に隠れるとすればトイレか風呂場のみ。そして、そういう部屋は入り口を封鎖されれば逃げ出すことは不可能だ。どう考えても得策ではない。
とりあえず今のところ、その3歩先からは動く様子は見せないが、この前のこともある。間合いなんかあってないようなもんだ。量子力学で出てくるワープとか不確定性原理とかをマクロな姿でやってくれるからな。それも清清しいほどに無表情で。本当に変なところだけ長門に似てやがる。
「キョン君、長門さん……どうしたんですか」
「あれは長門であって、長門じゃないんです。前、長門たちが戦ってた相手です」
「長門さんたちが戦ってた……?」
「2、3ヶ月前に長門たちが居なくなったときに起こったごたごたのことです」
「……あっ」
あの後、起こったことをハルヒ以外には説明しておいたので、どうやら思い当たるふしがあったらしい。
「あれがその長門さんに似た……」
今こうして対峙したままでも暑さによるのとは別な汗が背中を伝い、不快指数は軽く表示限界を振り切っている。ついでに言うと恐怖ゲージも軽くレッドゾーンに被っていて、朝比奈さんが居なければテンパっていたかもしれん。あのときの死闘ともいえる戦いを間近で見ていて、もし自分があんなのに関わったらと考えて恐怖を感じないわけが無い。
……とにかく、だ。
「朝比奈さん、逃げましょう!」
「え、は、え?」
朝比奈さんからまたロウソクを受け取り、その手を引いて走り出す。
とりあえず闇雲に今は逃げるだけだ。どこへ行ったところで見つかるなら、袋小路にならないところを往生際悪く逃げ回るしかないからな!