「キョン、起きなさい!」
 洋々たる意識の海の中へスキューバダイビングしていた俺は文字通り叩き起こされ、現実へ強制サルベージされた。目を吊り上げて起床を告げた張本人は、俺がさっきまで洞窟の奥へ向かって歩いているときに探していたやつだった。
「おい、ハルヒ。お前、何やったんだ」
「はあ?」
 細い眉を不機嫌そうに上げて、
「何言ってんの? まだ寝てるわけ?」
「朝比奈さんを泣かせ――」
 と言いかけて立ち上がると、視界に朝比奈さんの姿が入った。いつもの清楚な天使は泣いてなどおらず、また泣いた後のルビーみたいな赤い目もしていなかった。その麗しき先輩はお気に入りのリボンを無くした場所を思い出すような顔で、俺の顔を見て可愛らしく小首を傾げた。「キョン君、どうしました?」
 おかしい。
 すぐ傍にビニールシートを数回畳んで敷いてあったはずのものも、それらしいシートは俺がベッド代わりに持って来る前となんら変わらない姿でその場にあった。誰かが片付けたにしてはあまりに再現率が高すぎないか?
 まだおかしい点はある。俺は今起き上がったとき、壁にもたれかかって寝ていた。本来ならあの洞窟内で気絶したはずだから、同じ場所で体を起こすはずなのに、何故ここに居るんだ?
 誰かが運んだにしても、そういうときに相場的に存在する、「俺が見つかったときの様子を語る人間」も居ない。「あんなところで松明持って倒れてるんだもの、びっくりしたわ」って感じでな。さっぱり理解できん。
「腐ったアジの干物みたいな目と頭してるみたいね。高いびきかきながら寝てたし、本当に腐ったのかもしれないわね。2,3回殴ったら直るかしら」
 昔のテレビと同じことをするな。
 ……って高いびきをかいてたって? そんな姿を朝比奈さんに見られてたのか。それの方がよっぽどきつい。
「あっはっは、まーまー気にしない、気にしない。いろいろと疲れてたのさ、キョン君もね!」
 鶴屋さんが肩をぽんぽんと叩きながら、相変わらずの白夜みたいな笑顔でそう言った。ああ、やっぱり鶴屋さんもちゃんと居る。辺りを見回すと、長門、朝倉、実希の情報統合思念体のアンドロイドシリーズもいつも通りの表情を湛えながら座っている。
 長門はあのときのような、端的な語を掛けてくる様子は無い。あのときの帰って来いという無表情の懇願はなんだったんだろうな。
「……ん? 古泉はどこ行った?」
 正直あいつが何処に行ったかなんて、川に姿を現したアゴヒゲアザラシの行方くらいどうでもいいわけだが、一応姿が見えないから尋ねておいた方がいいだろう。
「古泉君ならあんたと違って真面目だから、さっき外に出て行ったわよ。天気も良くなったから、そろそろ新川さんたちが来てるかもしれないってことでね」
 洞窟の外はハルヒが言った通り、台風一過という言葉を思わせるからっとした天気になっていた。お陰で外の湿度はうなぎ上り、水分補給もせずに外に居たらすぐに脱水症状になるだろうな。
「おーい」
 と、洞窟の外から古泉の呼び声が聞こえた。何事かと外へ出てみると、軽やかな足取りと同じくらいに軽い笑顔の古泉が駆け足でこっちに向かっていた。十分近くまでやってくると、前髪を軽くかきあげて、
「新川さんと森さんがもうこちらに来ています。クルーザーはこの洞窟から一番近いところまで動かしてくれるそうなので、荷物をあちらまで運びましょう」
 これで1週間とプラスアルファを掛けた生活が終了するわけだ。正直プラスアルファが異常に長かったように思えるけどな。
 俺は荷物をまとめているハルヒに、一応最後に聞いておくべき事項を尋ねてみた。
「……そういや、ハルヒ」
「何よ」
「この洞窟の奥って何かあるか知ってるか?」
「そんなの知ってどうすんの?」
「いや、知的好奇心に駆られただけだ」
 ハルヒは間引かれた朝顔の芽を見る目で俺を見て、大仰に溜め息をついてから、
「…………はあ、まあいいわ。何にもないわよ」
「何もか?」
「何にも。あんたが寝てる間に見に行ったけど、短いただのトンネル。それも数十メートルくらいしか繋がってなかったわ。隠しスイッチとかがあるのかもって、そこらじゅう探してみたけど何も無かったし」
 俺の記憶、というのもあやふやなものだが、それによればこの洞窟は異次元へ繋がっているかのように長かったはずだし、長門や古泉、朝比奈さんが居た広場みたいなところもあったはずだ。短くもないし、ただのトンネルという表現も当てはまらない。
「どうしても気になるなら行ってくればいいじゃない。すぐに突き当たるわよ」
「いや、そこまでしたいわけじゃない」
 ハルヒの不審者を監視するガードマンみたいな視線を避けて、自分の手荷物とビニールシートを抱えて歩き出す。一歩洞窟の外に出ると、予想通りの呼吸困難に陥りそうな湿気が立ち上っていて、陽炎でも見えるんじゃないかと思うくらいに暑い。
 どうやら夢の中でも、ハルヒとその部下たちと完全乖離はできないらしいな。まだハルヒの非常識世界を羨ましく思っている節がどこか残っていて、それが原因でああいう夢を見たのかもしれない。ファンタジックな妄想も大概にしておかなきゃいけない。ただの現実離れした夢ならまだしも、こうやって中途半端に現実と非現実を混ぜるようなことがあってはまずい。その都度ハルヒに変な目で見られる訳だからな。
 ……まあ、そういうことを悩むのは、家に帰ってゆっくり休息を取ってからでも遅くない、よな?