「そういや長門はどうしたんだ?」
 もう木枯らしと呼んでも差支えがない冷たい風が吹き抜ける時期で、正直なところそろそろまともな暖房器具がないと夜を過ごすのが厳しい頃合になったある日の部室。大方はいつもと変わらぬ部室だったのだが、いつもは実希と並んで本を捲っている長門の姿が見えない。何か教室であったのか?
「外せないことがあるからって先に帰ったわよ」
「先に帰った? 突然だな」
 ハルヒはみかんをもぐもぐとやりながら、長門から借りた本に汁をつけないように注意して本を読んでいた。モノを食いながら読むなよな。
 この組のトップである組長とはいえ、今性急に解決しなければならない議題があるわけでもないから、その頭に位置する長門が居ないと非常に困る状況であるとは言わないのだが、あまりにも唐突で俺は首を捻った。
 長門が先に帰った……ね。嫌な予感がする。何かまたやばいことにでもなってるんじゃないか? それも長門じゃなきゃいけないようなことが。
 本来なら朝倉や実希もついていくものなんだろうが、それさえも逆にかせになるような状況に立たされていて、だからその他のインターフェースである朝倉と実希はここに残っている。そうは考えられないか。というかそうとしか考えられない。
 もうそろそろ年も終えて新しい年が来るってこの時期に、やれ生死をかけた戦いだとか、やれ異空間体験だとかいうのは勘弁した貰いたい。ただでさえ今年は毎日のようにいろいろありすぎたんだ。振り返るのも億劫になるくらいにな。せめて年越して落ち着く2月頃まではおとなしくしていてもらいたいね。できればそれからもずっと、なるべく平穏にしてもらいたいものだ。こっちにはいろいろとヤバイことを真顔で起こすようなやつを最高幹部に据えて居るんだから、そっちの処理だけでも手一杯なんだよ。
「まあいいわ、たまには有希もやることがあるんでしょ。特にやることもないし。せいぜいパーティーの算段するくらいだからね」
 俺がもし電話でそう伝えていたら「何言ってるのよ、絶対許さないわよ。早く来なさい」と一方的に電話を切られたことだろう。全く、人によって扱いが違いすぎるぜ。
 それはいいとして、ハルヒの言葉にとりあえず、そうだなと同意する一方で、俺の頭の中では悪相が鎌首をもたげ始めていた。またしばらくは安眠できない日が続くのかも知れないと思うと知らず知らずに溜め息。そろそろその気の抜けた炭酸飲料みたいな息を吐くのはと1年前ほどに決めたはずだったのだが、1年どころか数日も続いていない気がして、さらにまた溜め息が出た。
「大丈夫よ。そういう理由じゃないから」
 その様子を見ていたか、隣に座った朝倉がこっそりと耳打ちしてきた。
 そういう理由って……別に長門は戦闘中とかそういうことではないってことか? 朝倉は小さくこくりと頷いた。
「まあ正確な理由は話せないけど、とりあえず身の危険は無いわね」
 さすがに正月前になったら、あの偽長門とかも正月モードで忙しいのかもな。
「さあ、どうかしら。意外に新年直前になって挨拶に来る可能性もあるわよ」
 勘弁してくれ。想像もしたくない。
「そうね。年末はただでさえ忙しいんだから、変なことしないで欲しいわ」
 言って朝倉はみかんの皮を丁寧に剥き始めた。そうか、一安心した。
 安心したらまた考えることがなくなって、
「どうです、一局」
 オセロでも一局と表現するのが正しいのかさっぱりだが、最近本を読んでばかりだったからな。ちょっと気休め程度にいいかもしれん。朝倉と場所を交代してもらい、古泉とこたつの端で駒を同数に分け始めていると、
「ダメよ」
 紙面に視線を落としていたはずのハルヒがジト目でこっちを見ていた。なんでだよ。
「まだ全然読んでないんでしょ、本」
「それでも今日だけで5ページ進んだぞ」
「学校の教科書じゃないんだから、5ページなんて進んだ内に入らないわよ」
 俺の中では覚えてる中で最高新記録なんだが、どうやらハルヒの中では俺の新記録もただの路傍に転がった石でしかないらしい。
 俺と古泉は肩をすくめて、古泉は詰め将棋に、俺は白紙に踊る空想世界を綴った文字を読むことに専念を始めた。どうやら俺の生活はこの本を読むこと以外には基本的人間生活くらいしか許されず、娯楽という娯楽の時間は全て本に回されるらしい。
 ……家では眠れなかったときだけ読むことにするか。
 しかし「やれ」と言われても慣れないことというのは実に難しい訳で、心地よい下半身からの熱で徐々に睡眠欲が掻き立てられるためにだんだんと瞼が重くなり、いつしか俺は体をこたつに預けて目を瞑っていた。


 ふと何か夢の中で何かにぶつかるようなことがあったらしく、俺は全身をびくりと震わせて起き上がった。らしいというのは、その振動で何があったのかさっぱり全て忘れてしまったからであって、なんとなく覚えているのは何故かダンボールを被ってどこか研究所みたいなところで隠れていたということくらいだ。どうしてそうなったのか、なんでそこにいたのかというキーポイントは流砂に飲み込まれる木片のように急速に消えうせてしまっていて何一つ思い出せないのだが、思い出したところで何の意味も無いことにぼやけ頭なりに気づき、大あくびをした。
 さて、それはいいとしてここはどこだ?
 焦点の合わない目で辺りを見回すと、長机とやかん、後はコンピュータの液晶が目に映った。ああ、そういや部室で寝てたんだっけな。目線をこたつ机の上に落とすと、寝ていた頬の横に本が閉じておいてあった。読んでる途中で眠くなって置いたんだろうな。
「……起きた?」
 突然耳元で声がした。チーターに見つかったガゼルのように全力で振り返ると、そこには何のことはない、いつも通り操り人形みたいに制御されたような無表情があった。ああ、長門か。寝てたのを起こさなかったのか?
「悪いと思ったから」
 そうか。まあ本の読みすぎで脳が疲れてたからな。