「温泉に行くわよ」
「…は?」
「明日の午前8時、集合はSON組の組室前。以上。質問は受け付けないわ。絶対に来ること、いいわね!」
ガチャン。切れやがった。
金曜の午後。最近休日出勤が多いため、明日もなのではないか、という不安を抱きながら本日も元1年9組の教室で時間の過ごしたわけだが、いつもだったら終了間際に下るはずの「明日も来なさい」という命令が下らず、やっと明日はのんびりと過ごせるんだろう、と安心しきっていたとき。時刻にして夜9:00過ぎのできごとである。
温泉だって?と聞き返す間もなく、切られた電話をじっと見つめるが、そんなことでハルヒからもう一度連絡が来るわけでもなく、それどころか旅行が中止になるわけがない。ハルヒはやると言ったら、地球に氷河期が来ようが、隕石が飛来しようが、やってのけるやつだ。
仕方がない、母親に明日温泉に行くことになった、という旨を伝え、旅行の準備に取り掛かる。そういう話は最低でも1週間前にはしておけよな。
で、当日。
「えへへー」
なんでお前が居るんだろうな、本当にまあ。
「いいじゃないですか。人数は多い方が楽しいですよ。ねー?」
「ねー!」
またもや妹が付いてきたのであった。
それも今度は鞄に入っていたのではない。先回りして集合場所に、ちゃっかり自分の着替え等をリュックサックに詰め込んで立っていたのである。
もちろん、前の鞄入り込み事件から、こいつが付いてくることのないように、母親に温泉の旨を伝えたとき、居ない時間を見計らっていたはずだ。…全く、いつの間に知ったのやら。油断も隙もない。
「そうよ。それに妹ちゃんだけ置いていくなんてかわいそうじゃない。小泉君、一人くらい増えても大丈夫よね?」
「ええ、もちろんです。歓迎しますよ」
まあ、仕方がない。ここまで付いてきて追い返すにも行くまい。また、朝比奈さん、お願いします。
「構いませんよ。妹ちゃんとは仲良しですから」
「うん!」
朝比奈さんが妹の頭をなでりなでりとする。朝比奈さんの笑顔が見れたから、よしとするか。こうしてみると、俺の妹というより、朝比奈さんの妹という方が正しい気がしてくるな。
「では参りましょう。校門前に、そろそろマイクロバスが到着する時間ですから」
校門までぞろぞろと連れ立って歩くと、そこに立っていたのは、もう迎えてくれる人がこの人たちじゃなければ古泉の紹介というものを疑ってしまうだろう、新川さんと森さんの二人だった。
「また今回もお世話になります」
「いえいえ。また皆様に会えて光栄です」
新川さんがうやうやしく頭を下げる。本当に、腰が低い人だ。俺達なんかにここまで丁寧にしなくていいとは思うんだが…まあ仕事なのかもな、これも。
「では、バスへお乗りください。大体2時間ほどの旅となります。途中に一度休憩がございますので、その時にトイレなどは済ませてください」
森さんの説明を聞き、各々バスへ乗り込む。後方の5人列に1人で大きな態度でハルヒが座り、その他はペアで座る。運転手の新川さんだったが、この人はどれだけの免許を持っているんだろうな。クルーザーも運転していたし、もしかして免許という免許は全部持っていたりしないだろうか。それがリアルに想像できる辺り、ある意味ではハルヒ以上の完璧超人だったりするんじゃないかね。
さて、バスの中で大富豪だとかババ抜きをして、朝比奈さんと実希が酔ったりしたものの、実希は朝比奈さんのこんなところまで真似したのかね、途中休憩を挟んでほぼ2時間で到着。かなり山の中へ入り、辺りにはまだ微妙に雪が残っていたりする。しまったな、もっと厚着をしてくればよかったかもしれん。
「大丈夫ですよ。ロビーや部屋は暖かくなっていますから。それにいざとなれば、上着を借りることもできます」
そうか、それなら安心だが。
緑の壁を縫うように進む道を走ると、突然開けた場所に風格ある姿で建っていたのが、今回我々が止まる旅館である。名前は…なんだ?
「まあ、名前なんかいいじゃない。問題は中身よ」
「ご期待に添えるかどうかは分かりませんが、できるだけのものはご用意させていただく所存でございます。また、離れには温泉の露天風呂もございますので、ご自由にお入りください」
「キョン!聞いた?温泉で露天風呂ですって。絶対入らなきゃいけないわね」
そうかい。俺は別にどっちでもいいけどな。でも確かに、せっかくならゆっくりと入りたいものだ。
「着きましたので、皆さん、お降りくださいませ」
「行くわよ!」
一番後ろの席から元気よく飛び出すハルヒは、新川さんや森さんより先に中へ入ってしまった。おいおい、先に行くなよな…。とりあえず、顧問なんだろうに。
「いえいえ、構いませんよ。それくらい喜んでいただけるとは光栄です」
はっはっは、と貫禄ある笑い方の新川さん。
「うーん、結構いいところだね。うちの別荘にもこんな感じのところがあるけど、こっちもこっちでいい感じだよ」
鶴屋さんの家って実はお金持ちなんですか。
「にゃっはっは、そんなことないさっ。別荘っていっても、そんなに堅苦しいものじゃないよ。機会があれば、ご紹介するさっ。もちろん、みんなでね」
それはぜひともお願いしたいですね。
女性陣が全員出るのを確認してから、俺と古泉がそれぞれ出て行く。と、バスを出たところで古泉が口を開いた。
「実はこの温泉旅行、企画は涼宮さんなんですよ」
いつものことだろう。唐突だったしな。突発性と意外性のコラボレーションはハルヒの得意技だろう。
「そういう意味とは少し違いまして」
前髪を指で弾く。
「今回の旅行は、風邪を引いて寝込んでいた、ということになっているあなたの快気祝い、という名目なんですよ。本当は涼宮さんに言うのを止められてはいましたけど」
「ハルヒが?」
あのハルヒがか。いまいち信じられん。
「俺の快気祝い、ということにかこつけて、旅行に行きたいだけにも思えるけどな」
「そうですか?涼宮さんはそんなに無神経ではないと思いますが」
まあ、そうだな。しかしだな、いつもの行動を見ていると、どうしてもそういう方向に考えたくなるのは仕方がないだろう。
「それはお察しします」
ロビーに入ると、ハルヒや朝比奈さん、鶴屋さん、妹の4人はみやげ物屋にたむろしていた。気が早すぎやしないか。
「分かってるわよ。でも、見てると楽しいんだからいいじゃない」
そういうもんかね。
…む?長門は何処行った?
「ああ、長門さんならあそこよ」
朝倉が指差す先には、旅館に備え付けの浴衣を広げて興味津々といったご様子の長門有希。俺が古泉と外で話している間に、軽く館内説明は終わったらしく、そのときに見せられた浴衣に惹かれたらしい。
「長門、浴衣は風呂に入った後、ロビーを動いたりするときに着るものだから、後でな」
「分かっている」
しかし、着たくてうずうずしてる、といった様子で、一向に浴衣を仕舞う気配はない。
「何、有希、もう浴衣が着たいの?じゃあ、みんなでお風呂行きましょ!」
とりあえずビール、ではなく、とりあえず風呂、と言ったところか。まあ、お好きなようにしてくれ。俺はとりあえずちょっと寝るぞ。
「ジジくさいこと言ってるんじゃないわ。キョンも入るのよ、露天風呂」
風呂入るときも命令されなきゃいかんのか、俺は。
「お風呂にせよ、お休みにせよ、お部屋へご案内しましょう。男性方はこの桐の部屋、女性方はあちらの梅の部屋でございます」
森さんがルームキーを、ハルヒと俺にそれぞれ渡してくれる。ありがとうございます。
「食事は広間にて、皆様で取っていただきますので、時間が来次第、ご連絡させていただきます」
それ以外に、避難経路はどうなっているだとか、お風呂は露天風呂以外にも部屋風呂があるだとか、それぞれの部屋に関係ない、全体について軽く説明をしてくれて、「それでは、ごゆっくり」と一礼してフロントの方へ戻っていった。
「さあ、荷物を置いて、着替えを持ってきたらさっさとお風呂に行くわよ。ほら、ぐずぐずしない!」
分かったよ。俺も行くさ。