熊騒動が終わって数日。特に大きなこともなく、平穏な日常が戻ってきていた。
 放課後のチャイムを聞きながら、身に染み付いた習慣を呪いながらも、組室までやってきた。コンコンと軽くノック。
 部屋が変わっても相変わらず朝比奈さんは部屋に鍵をかけるということに考えが至らない様子で、こちらの教室に移ってから、つまりSON組が発足してからも、朝比奈さんの柔肌を再び目撃したときからノックするようになった。
 いつもだと朝比奈さんの「はぁい、どうぞ〜」とかハルヒの「開いてるわよ」とかが聞こえるものだが、今日は非常に静かだ。なんだ、誰も居ないのか?
 ドアノブをひねると、中にちゃんと人が居た。…いや、これは語弊があるな。中に生き物は居た。
 窓際、向かい合うように椅子に座っている姉妹。実希は窓枠を枕に夢の中を彷徨っているらしい、片手にしっかりと本を持ったままぐっすりと眠りこけている。長門は、その向かいで規則正しい呼吸の合間に本のページを捲っていた。
「長門、ハルヒはどうした?」
 この部屋の主とも言うべき人物の名を挙げると、長門はゆったりとした動作で紙面に向けていた視線をこちらに向け、
「帰った。他も今日は来ない」
「なら長門達はなんでここに残ってるんだ?」
 俺は、窓枠に頭を載せて安眠しているらしい実希に軽く視線をやってから言う。こいつ、よくこんな格好で寝られるな。
 これまたゆっくりとした動作のまま、長門が本の背表紙を見せる。
 貸出禁止。俺の目がおかしくなってなければ、長門が起こした分厚い本の背表紙にはそう書いてあるシールが張ってあった。ああ、家まで持って帰れないからここで読んでいるわけか。
 こくりと頷いてまた読書に戻る。そういや、最近こうやって読書にすぐ戻る長門は珍しい気がする。なんだかんだで、人が来たら読書をやめるようになってきていたからな。それだけおもしろい本なんだろうか。
 鞄を自分の席の机に置き、窓際まで近づく。日の当たりがよく、窓際辺りだけ小春日和だった。実希がうたたねをしてしまうのも頷けるな。
 頬を突いてやっても、ひっぱってやっても起きる様子はなく、向かいで静かに読んでいる長門と同じ有機インターフェースというというより、地球生まれの一女子高生にしか見えない。
 と、何だか視線を感じるなと思ったら、長門がページを捲るのをやめ、こちらを凝視していた。どうした、長門。
「睡眠というものを知りたい」
「…?」
 何を言っているのかさっぱり理解ができん。
「私達有機インターフェースは睡眠を必要としない。だから、有機生命体の睡眠行動というものが理解できない」
 あれだけ血を流してけろりとしてるような奴らだから、人間とは違うと思っていたが…。
「同期行動に依る外界的情報遮断とは違う。実希には同期ができない代わりに、人間の生態を観察してできた擬似的睡眠能力が備わっている。しかし、彼女の睡眠も正確には人間の睡眠とは異なる。だから、睡眠というものを本質的に情報統合思念体としても、有機生命体の睡眠行動を教えて欲しい」
 長門は続けた。
「特に興味深いのは、人間の夢についてである。ただ記憶をつなぎ合わせているのではなく、様々な新しい情報を生命体の脳で生産し、自覚的や非自覚的にその夢を体験することができる」
 そう言われてもだな、俺達は夜になると勝手に眠くなって、夜型の人間は明け方に眠くなるらしいが、しばらくすると目が覚めるだけだからな。寝ることについて何か理由があって行動しているわけじゃない。だから、教えてくれと言われても説明できん。
「…そう」
 力になれそうになくてすまんな。
「構わない」
「……んっ…、んんっ……!」
 大きな伸びと共に、実希が起床。
「よう、おはよう」
「…………」
 じろりと俺を見やる。こいつ、低血圧か。かなり不機嫌そうだ。
 数回ゆっくりと瞬きをした後に、
「…ああ、おはようございます」
 やっと意識がある程度戻ったらしい。
「さっきまで、凧揚げしながら雪玉の上で年賀状を書いていました」
 どういう夢だ、それは。今までやってきたことを同時にやろうとしたのかね。
「実希、長門に教えてやってくれ。睡眠ってなんなのか」
 俺には説明できん。
「私に言われても。そもそも生理現象を言語化するのが無理だと思うよ、お姉ちゃん」
「分かっている」
 それでも知りたいのか。こくりと首を縦に振る長門。
 よし、こうなったら最後の手段だ。最初から最終手段だけどな。
「昔からな、眠るときには羊が1匹、羊が2匹と、羊を数えるといいんだと言われてきているんだ」
「それは、英語で羊が「sheep」であり、眠るの動詞「sleep」と語幹が似ていることから、羊を数えることでだんだん眠りに近づくという意味合いで、日本語で羊を数えても意味がないんですよ。日本語なら、根室が一箇所、根室が二箇所と」
 根室は一箇所しかないっての。
「羊が1匹、羊が2匹、羊が…」
 しかし、長門はそんな話を聴いていなかったのか、羊を数え始めた。淡々と低温ボイスで羊を数えている姿は、成金のおっさんが「金貨が1枚、金貨が2枚…」と数えているのと同じくらい怖い。
 何にしても、がんばれ長門。羊を数えて寝るんだ。
「ZZzzzzz…」
 って実希、数えてないお前が寝てどうする!

 結局長門は羊を638匹まで数えても眠る気配さえなかったことは報告しておこう。そこで俺が止めておかなかったら、長門は何匹まで数えていたのか…あまり考えたくないな。