「おわっ!」
どすんと大きな音を立てて俺は地面に転がり、強かに頭をぶつけた。
それと同時に腹部への痛みが……無いな。
そうだ。聞いたことがある。死ぬ前には感覚が無くなるとか。そういえば頭もかなり強く打ったはずなのに痛くない。
確かに全く痛みなど無い。あるのは自分が死ぬらしいという他人事のような客観的感覚くらい。
ああ、これが死ぬ間際なんだとさらに死を実感させられた。
いろいろ遣り残したことがあった気がする。少なくとももう少しくらいは朝比奈さんの淹れたお茶が飲みたかったな。別に夏場だろうが淹れたての熱々の緑茶を。
ハルヒの奴もどうなるんだろうな。
悲しいかな、朝倉が昔望んでいたときは俺が死なずに、特にその任を解かれてしまった今頃になって俺が死ぬのだ。
それも皮肉なことに、作り出した空間内で俺を殺そうとした朝倉を全身で阻止したはずの長門本人の手によって殺されるのだ。何の冗談だろうと思う。冗談ではないんだが。
刺されると体から血が抜けていくから寒くなるらしいという話も聞いたが、こっちは嘘だな。暑くも寒くも無い。いや、どちらかといえば暑いくらいか。
それと同時に眠気も来るはずだそうだが、もういろいろとあったお陰で意識がはっきりしすぎている。
人間、もう死んだと理解してしまえば意外に達観するもんなんだな。これがもうすぐ刺されるの刺されないのとしばらく時間があればそうでもなかったのかもしれないが、考える前に刺されていたし。
刺されて大分経ったからそろそろ死後の世界へご案内された頃だろうか。
しかしあれだけ明るい空の下だったというのに瞼の向こうから光が全く見えない。随分と暗いらしいな、死後の世界とやらは。
何が見えるか分からない分、瞼を開くのはかなりの恐怖だが、じっとここで倒れていても仕方が無い。そろそろ体を起こして死の世界でも歩き回ってやろうじゃないか。何、閉鎖空間から比べりゃきっと広いもんだろう。
おそるおそる目を開けてみる。
「……?」
天井がある。なんだ、今時の天国か地獄か知らないが、屋根なんかあるのか。思ったよりも現世と似てるのか。
ぼやけた視界のまま身を起こして辺りを見回す。
そこには見慣れたシーツと布団のベッド、タンス、テレビ。服装はスウェットの上下。
……夢? 夢だったというのか。
「ふぅ」
息を吐いた途端にどっと汗が出て、同時に脱力した。達観していたつもりで、実のところは諦観してただけだったらしい。こんなに生きていることに全力で感謝したのは生まれて初めてだ。
耳元でけだるそうな猫のあくびが小さく聞こえてきた。首をそちらへ向けるのも億劫だが、おそらくそこにはシャミが居るんだろう。さっきの夢で腹部へ違和感があったのは寝ている俺にシャミが飛び乗ったからかもしれない、なんて思ったのはもっと後になってからだが。
いや、待てよ?
さっきの続きでここに居る可能性だって十分可能性はある。刺された後に誰かに運び込まれて一命を取り留めたとか。
「どうしたの」
「ぬぁっ!」
寝ていた怖がりの犬を突然起こしたようにびくりと大きく体を震わせて俺は窓際まで逃げ、声の主を確認するとなんということはない、いつも通りの無表情の化身ともいえる長門有希が数パーセントほど懐疑の表情を混ぜてこちらを見ていた。
「すまん長門。お前の好きなようにしてくれ。俺はもう何にも言わん!」
「…………」
さらに懐疑の表情が強くなる。やっぱり違う、のか?
腹に手を当ててみるが、手には血など付着していない。それどころかスウェットの上着を捲ってみても刺された痕跡すら見当たらない。
ようやく確信した。あれは夢だった。リアルな夢。ハルヒと閉鎖空間から戻ってきたあれとは違う、完全な夢。
呼吸を整えながら再び脱力。
「何でもない。すまん、ちょっと夢を見ててな」
「夢」
「ああ、夢だ。それもとびっきりの悪夢だ」
目が覚めた後に急激に浮き出した汗を、長門がいつの間にやらタオル片手に拭いてくれていた。さすがに恥ずかしいからやめてくれ、とはさすがに言えなかった。何故なら自分でやるには脱力しすぎていたし、拒否することで夢の中の長門みたいな豹変をされたらという恐怖感があったからだ。
「あなたの妹からタオルの場所を聞いた」
「そうか……助かる」
しばらく汗を拭いてもらいながら遅まきながら現実をかみ締め始めていた。触れるタオルの感覚がちゃんと俺が生きていることを証明してくれている。それだけで十分だった。
俺は足を崩して俺の汗を拭いてくれている長門の両肩に手を置く。当然長門も不思議そうな顔と十分に言っていいくらい表情が変わる。
だがそんなこともお構い無しに俺は告げておかねば。さっきのは夢だったが、現実になることはないとも言い切れないのだから。
「長門」
「?」
「今の長門が1番良い。無理に変える必要はない。だから今のお前でいつまでも居てくれ。どうしても変えるなら変えるで相談してほしい。ちゃんと相談に乗るからな」
早口にまくし立てる俺を見た長門は目を瞬かせていたが、
「そう」
呟いた。